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名人戦の歴史 ─明治から昭和編─

 本因坊秀哉が最後の本因坊であったことはすでに述べましたが、彼は最後の名人でもあったのです。彼の時代まで、名人とは、とくにすぐれた棋士に贈られる称号であり、初代名人の本因坊算砂から最後の名人の本因坊秀哉まで、およそ300年の間に10人しか名人にはなれませんでした。「名人」という称号が、いかに特別なものだったかがわかりますね。もう一つ皆さんに知ってもらいたいことは、このころまで、名人イコール九段であったことです。これは、江戸時代に本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)という人が定めた制度です。彼は、九段を名人、八段を準名人、七段を上手とする段位制を作りました。ですから、いまのように九段の棋士が何人もいるのではなく、九段はそれぞれの時代に一人しかいなかったのですね。約300年の間に10名しかなれなかったのは、上にも書いたとおりです。なお、現在の将棋や柔道や剣道などの段位制は、囲碁の段位制をならって作られたものだといわれています。
 さて、本因坊秀哉の死後、名人という称号はどうなったのでしょうか。実は、彼が亡くなってから約20年後の1962年になって、第1期名人戦が読売新聞社主催で行われ、藤沢秀行選手がみごとにタイトルを手に入れました。その間の約20年間は「名人」はいなかったのです。
 このときから「名人」も「本因坊」と同様、新聞社主催のタイトル戦となります。その後、1976年に名人戦の主催が読売新聞から朝日新聞に移り、現在に至ります。2004年の大会は朝日新聞に移ってから数えて第29期にあたり、張栩選手がはじめて名人のタイトルを取りました。本因坊戦よりは、少し歴史の浅い大会だといえます。
 ところで、秀哉の死後約20年間は「名人」はいなかったのですが、「九段」はたくさん誕生しました。あれ? 名人イコール九段じゃなかったの?… 実は、1949年に日本棋院が大手合(おおてあい)という制度をスタートさせます。この制度は、なんと2003年(関西棋院では2004年)まで続きます。この制度では、大手合での一定期間の成績によって段があがっていき、一度あがるともう落ちることはありません。九段になった人は大手合には参加しなくなり、ずっと九段のままなのです。そうすると……九段の人がどんどん増えていきますよね。ですから、いまは九段の人がたくさんいるわけです。
 さてここで、名人戦の前に行われていた大会についてお話ししましょう。1949年に大手合がスタートすると、九段がどんどん誕生しました。「いままでは九段イコール名人、すなわち九段は一番強い人だったのに、だれが一番強いのかよくわからないじゃないか」という声があったのかもしれません。1958年に日本最強決定戦が読売新聞の主催で行われました。この大会はリーグ戦で行われ、第1回は呉清源選手が優勝しています。この大会は3回で終わってしまいますが、かたちを変えて、1962年の第1回名人戦へとつながっていくのです。

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